昨日見た夢の事は、なんとなく覚えている。
 あの日の事は、それにとても良く似た感覚。
 もしかしたら、あの日の事も夢で見たものだったのかもしれない。
 
 最終電車も終わり、駅舎の灯りも店々の灯りも落とされ漆黒の闇に包まれた駅前のロー
タリー。
 時折通り過ぎる車の音もヘッドライトの光も、私たちを包むこの漆黒の世界には届かな
い。
 音も光もない世界に響く、私の声。
  「私じゃ、ダメですか?私じゃ、姉さんの代わりにはなれませんか?」
 鳴海さんにそう告げたあの日、私は姉さんの代わりとして生きていくことを心に決めた。
 鳴海さんにとっての、姉さんの代わり。
 姉さんが宿した新しい命にとっての、姉さんの代わり。
 あの日から涼宮茜は、涼宮茜としてではなく涼宮遙の代わりとして生きてきた。
 そして、今でも―



 孝之さんの夕食の支度を終え、娘を寝かしつけ、ひとり孝之さんの帰りを待つ。
 1日のうちで、ほんの少しだけ時間の流れが遅くなるような気がする、そんなひととき。
 カチャカチャッ カチャッ
 玄関の鍵を開ける音。
 孝之さんが仕事から帰ってきた。
 今日はいつもより少し遅い帰宅。仕事が忙しかったのだろうか。
 それからまもなく、孝之さんはネクタイを緩めながらリビングへ入ってきた。
 「ただいま。」
 「あ、お帰りなさい。」
 「ゴメン、遅くなっちゃったよ。今日は早く帰れると思ったんだけど、玉野さんがまた
やらかしちゃってね〜。ホント相変わらずのドジっぷりで…ってかそれより、ああもう腹
減った〜。昼から何にも食べてないんだよね。」
 「待ってて、今すぐレンジで温めなおすから。」
 「あ、いや、やっぱ先に風呂にするわ。」

 時々、ふと忘れそうになる。あの日、心に決めた事を。
 私と、孝之さんと、私たちの娘である春菜との家族で過ごすささやかな日常がそれを忘
れさせようとしてくれるのだろう。
 でも、私は決して忘れられない。
 なぜなら、知っているから。
 このささやかな日常が、いつかは覚めてしまう儚い夢であることを。
 そして、あの人もこの夢の終わりを望んでいるであろうことを。

 「ぷはーっ、風呂あがりの一杯がウマい季節になりましたなぁ〜…って、オッサンか俺
は。」
 お風呂から上がってきた孝之さんは、タオルを首にひっかけたままいつものように晩酌。
私も孝之さんの夕飯の準備をしながら、ビール1杯だけ付き合ったり。
 「もぉ〜、別におじさんくさいこと言うだけならいいけど、ビールのせいでお腹までで
てきちゃったらイヤだよ〜」
 「いや、最近ちょいヤバいかも…あ、それより今週の土曜…ってか明日、休み取れたよ。
遙のお見舞い行くだろ。なんか大空寺のヤツがゴネてたけど、そこは店長権限でねっ。い
くらアイツが社長の娘だからって、容赦しないぜぇ。」
 少しビールの入った孝之さんが饒舌に話していたその時。
 カチャッ
 不意にリビングのドアが開き、春菜がひょっこり顔をだした。
 「ママー、のどかわいた。ジュース。」
 「寝る前にジュースはダメよ。夜中におしっこしたくなっちゃうでしょ。明日はママの
おねぇちゃんの病院に行くんだから早く寝なさい、春菜。」
 「うん、はるなわかった。あっ、パパおかえりなさい。」
 「おっ、ただいま〜春菜。まだ起きてたのかぁ〜。あ、もしかしてパパのこと待ってて
くれたのかぁ?」
  ふるふるふる。
 「ん〜ん。はるな、おしっこー」
  とてとてとて。
 「パパの心、娘知らずとはまさにこの事ナリ…」
 ガクリ、と肩を落とす孝之さんには見向きもせず、春菜はトイレへと走って行ってしま
った。 
 「もう、孝之さんったら。」
 …
 あれ、なんだろう、こんな何気ない日常のやりとりを私じゃないもうひとりの私が見て
る。
 そして、語りかけてくる。
 その場所にいる鳴海茜は、所詮は作り物。
 いつか『その時』が来れば簡単に消えてしまう、虚像。
 それを涼宮茜は決して忘れてはいけない、
 そして、それを涼宮茜は決して忘れることはできない、と。



 海辺の町、欅町。
 この町に、姉さんがもう何年も眠っている病院がある。
 何度目だろう。
 こうして、私と、孝之さんと、春菜の3人で姉さんの病室を訪れるのは。
 主治医である香月先生に挨拶を済ませ、姉さんの病室へと向かう。
 香月先生の話によると、姉さんの状態は相変わらずらしい。
 途中ナースステーションに立ち寄って看護婦の星乃さんと天川さん、穂村さんに挨拶をしてから、
さらにリノリウムの長い廊下を歩いていく。
 実際の距離はそれほどでもないのに、なぜかいつも、とても長く感じる廊下。
 ようやく姉さんの眠る病室の前に着くと、コン、コン、と軽くノックをして、病室の扉をゆっくりと開く。
 「姉さん、お見舞いに来たよ。」
 「遙、お見舞いに来たぞ。」
 「きたよ〜」
 個室だから、姉さん以外は誰もいない。
 だからというわけではないが、何の反応もない。
 なぜか、ホッとした。
 でも、そんな自分を、病室の澱んだ空気が攻め立てる気がした。
 なんだろう、この息苦しさは。
 耐えかねて病室の窓を少し開けると、海からの初夏の心地良い風が入ってくる。
 でも、私の胸の中までは風は届かない。
 だから、心地よいはずの風の心地良さも、感じられない。
 私の胸の中の空気は、澱んだまま。

 「ママのおねぇちゃん、こんにちは」
 「…」
 春菜の無邪気なあいさつに、もちろん姉さんの反応はない。
  「ねぇママ。ママのおねぇちゃん、きょうもおきてはるなとおはなしできないの?」
  「そうね…」
 普段は春菜に「ママ」と呼ばれても平気なのに、姉さんの前でそう呼ばれると胸が痛い。
 姉さん、私はこの娘にママと呼ばれてもいいの?
 姉さんは、それを許してくれるの?
 「そうね、早くお話できるようになるといいね。」
 嘘。
 胸が痛い。
 「うんっ。はるなねえ、ママのおねぇちゃんにいっぱいおはなししたいことがあるよ。
ええとね…」
 「そうだな、パパもいっぱいお話したいことがあるぞ。」
 「えっと、はるながおはなししたいのはぁ、ひとーつ」
 ふたーつと、春菜は小さな指を折り数えている。
 「あ、はるなねえ、ママのおねえちゃんのすきなえほんのおはなしとかしたいなあ。」
 「そうだなあ、ママのお姉ちゃんの好きな絵本は確か…」
 「…」
 「なあ、茜。遙の好きな絵本って確かあれだったよなあ。」
 「…」
 「茜?」
 「…」
 「茜っ!」
 「…えっ?あ、ゴメンナサイ。ちょっと考え事してた。」
 嘘。
 胸が痛い。
 孝之さんの問いかけには気付いていた。
 でも、孝之さんは私じゃない誰か他の人に話しかけていたような気がしたから。
 「…あ、もう今日はこれくらいにしてそろそろ帰るか、茜。」
 「え、あ、うん…」
 一瞬、孝之さんの表情が曇ったのを私は見逃さなかった。
 ああ、やっぱり、孝之さんには分かってしまう。
 たぶん、きっと、私はひどく醜い顔をしていたのだろう。
 「パパぁ、ママぁ、もう帰るのぉ〜」
 孝之さんの『帰る』の言葉を聞いた春菜が、ちょっぴり不満げに言った。
 「ああ、ママのおねぇちゃんも疲れちゃうからな。よしっ、春菜。ママのおねぇちゃん
にバイバイしようか。」
 「うん、またくるね。バイバイ〜」

 病院を後にし、駅へ向かって海沿いの遊歩道を歩く。
 海から吹く風が心地良い。
 あれ、なぜだろう。さっきまで感じなかった潮風の心地良さ。
 風が、私の胸を吹き抜けていく。
 「あ、パパぁ、ママぁ、みてみて〜。かもめさんがいっぱいいるよ〜」
 私の胸を吹き抜けるのと同じ、心地良い潮風に乗って空を舞う鳥たちを見て、春菜が無
邪気にはしゃいでいる。
 「春菜、あれはカモメさんじゃなくてウミネコさんだぞぉ〜」
 「ええぇ〜うみにもねこさんがいるのぉ?」
 無邪気にはしゃぐ春菜を見て、一緒にはしゃぐ孝之さん。
 そして、私。
 そんな私たちの姿は誰の眼にも、幸せな家族に映るに違いない。
 ほら、そこのベンチに腰掛けて休憩している老夫婦も私たちを見て微笑んでる。
 だって、私たちは誰の眼から見ても、幸せな家族なんだから。
 
 春菜と一緒にはしゃいでいた孝之さんが、急に神妙な面持ちになって、黙り込む。
 時を同じに、さっきまでの心地良い潮風が、ピタリと止んでしまった。
 ひとりはしゃぐ春菜の声が、なんだかとても遠い。
 それからしばらく、私と孝之さんは黙ったまま歩いた。

 不意に、さっきまで止んでいた潮風が私の髪を揺らした。 
 ふと、孝之さんが口を開いた。
 「なあ、茜。解ってるとは思うけど…」
 「うん」
 「俺はその、なんだ、茜の事をだなぁ…」
 解ってる。
 「うん、解ってる、大丈夫だから…」
 「そうか…ならいいけど。ゴメン…」
 胸が痛い。
 そう、姉さんのお見舞いに行った日の帰り道は、いつもより孝之さんが優しい。
 もちろん、いつも優しいのだけど、なんだか不自然なほどに優しい。だから、胸が痛い。
 「べつに孝之さんが謝るようなことは…。ホント大丈夫だよ、ちゃんと解ってるから。」
 そう、解ってる。
 孝之さんの言いたい事は、解ってる。
 「茜を遙の代わりだなんて思っていない。涼宮遙の代わりではない、鳴海茜以外の何者で
もない茜を愛してる。それに、鳴海春菜の母親は鳴海茜1人だけだ。俺たち3人は、かけ
がえのない家族だよ」…。
 でも、孝之さんがそんな事を思うのは、眠ってる姉さんを見て自分が姉さんの目覚めを
待っていることを再認識するから。
 そして、姉さんの目覚めとともに消えてしまう、擬似家族の中に身を置いている事に罪
悪感を覚えるから。
 だから、その罪悪感から逃れるためにこの擬似家族を本当の家族だと思い込もうとして
いるのだと。
 胸が痛い。
 この胸の痛みは、春菜の無邪気さのせい?
 それとも、孝之さんの優しさのせい?
 ううん、違う。
 誰のせいでもなく、それは私自身の、あの日からずっと背負い続けている罪…


 
 「さぁーて、そろそろ行かないとなぁ。月曜の朝はいつもかったりぃ〜」
 リビングのソファに腰掛けていた孝之さんは、そんな事を言いながら気だるそうに腰を
上げる。
 「パパぁ、おしごといってらっしゃい」
 「おうっ、行ってきま〜す。」
 シャキーン
 春菜の一言で、孝之さんはさっきまでのダルダルモードからいきなりキアイハイリモー
ドにチェンジ。もう、孝之さんってばホント春菜にデレデレなんだから。
 「あ、そうだ茜。今日は店長会議で少し遅くなるから。」 
 「お夕飯は?」
 「あ、いいや。たぶん会議の後飲み会だろうから。ってか気が重ぇ〜。なんか最近飲み
会でメイプル支店っーとこの店長がやたら俺のそばにきて…ヴぁァァ、思い出しただけで
鳥肌炸裂ぅぅ」
 「もう、嫌ならはっきり言えばいいのに。それより孝之さん、時間いいの?」
 「あ、そうだ。こんな事してる暇ないな。じゃ、行ってきます。」
 少し慌てて玄関へと足を進める孝之さん。
 「行ってらっしゃい〜」
 それを見送る春菜と私。
 いつもと変わらない月曜の朝。
 毎日変わらない日常の風景。
 そう、毎日変わらない…
 うん、これまで変わらなかった。だから、たぶんこれからもきっと…
 「ママー、ごはんまだあ?」
 声の主のほうに目をやると…
 春菜が食卓の定位置にちょこんと座って、親鳥に餌をねだる雛鳥のように朝食をねだっ
ている。
 「あ、うん。ちょっと待ってて。今用意するから。」
 うん、これも毎日変わらない日常の風景。
 私が今、しっかりと感じる事のできる現実。
 それでも―



 昨日見た夢の事は、なんとなく覚えている。
 私が今、しっかりと感じる事のできる現実も、それにとても良く似た感覚。
 こんなにもしっかりと感じているはずなのに。
 もしかしたら、私はまだ夢の中にいるのかもしれない。

 夢は、いつか終わるもの。
 姉さんが目覚める日の訪れは、私の儚い夢の終わり。
 私が鳴海茜でいられる、虚空の世界の終わり。
 たしかに、姉さんが目覚める可能性は低い。姉さんはこのままずっと目覚めることはな
いかもしれない。
 私が儚い夢から永遠に覚めることもないかもしれない。
 でも、姉さんが目覚める可能性はゼロではない。
 そして、誰もがその可能性を信じ、姉さんの目覚める日が訪れることを望んでいる。
 もちろん、あの人もそれを望んでいる…
 私も、姉さんの目覚める日が訪れることを望んでいるのだろうか。
 それとも私は、儚い夢から永遠に覚めないことを望んでいるのだろうか。
 鳴海孝之の妻であり、鳴海春菜の母親である、鳴海茜でいられる虚空の世界が永遠に続
くことを望んでいるのだろうか。
 私の望みは―
 
 あれ? いつの間にか眠ってしまったのだろうか。
 確か、春菜を寝かしつけてから…
 孝之さんはまだ帰ってきていないようだ。そういえば、今日は店長会議のあと飲み会で
遅くなるって言ってたっけ。
 今何時だろう。
 サイドボードの上の置時計に目をやると、時計の針は10時を少し回ったところだった。
 
 何か、とても嫌な夢を見ていたような気がする。
 どんな夢だったかはまるで思い出せないけれど。
 あれ? 
 とても静かだ。まだ夢から覚めていないのだろうか。
 
 その時
 プルルルル…プルルルル…
 静寂を一瞬にして壊す電話のベルの音。
 なぜか、夢の終わりを告げる目覚ましのベルの音のような気がした。
 目覚ましのベルを止めるように、そっと受話器をとる。
 「はい、鳴海です。」
 「夜分遅くすみません。欅総合病院ですが…」


                                                    fin.





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