恭介は言う。
「理樹と鈴を成長させるために、理樹と鈴が待ち受ける過酷な現実に負けない強い“力”を得ることができるようにするために、永遠に1学期が繰り返される世界を作り出した。」と。

だが、「全く同一のものが繰り返される」としたとして、はたして理樹と鈴を成長させることはできるのだろうか。
つまり、「全く同一のものが繰り返される」としたのでは、「弱さ」といった否定的なものまでもが永遠に繰り返されてしまうのではないだろうか。

リトルバスターズの仲間達と過ごす楽しい日々が「永遠」に続くことを望む理樹にとっては、「リトルバスターズの仲間達と過ごす楽しい日々」という「全く同一のものが繰り返される」世界は理想的なものであるかもしれない。
しかし、それでは理樹と鈴を成長させることはできず、「世界」は存在の理由を失う。最早、理樹と鈴を成長させるためには「世界」は滅びなければならない。


そうだとすると、「永遠の世界」などやはり存在しないのだろうか。
つまり、麻枝准はリトルバスターズ!という作品をもって「永遠の世界」を否定したのであろうか。

理樹は言う。「僕は知りたくなかったんだ。 生きることが、失うことだったなんて。」と。

「失うことのない世界、なにもかも、変わることのない世界」が「永遠の世界」であるならば、「“永遠”なんて、なかったんだ」といえるであろう。

だが、「永遠」は「失わないこと」、「なにもかも、変わらないこと」でしかないのだろうか。
たとえ失ってしまったとしても、何度でも生成を繰り返すことができるのではないだろうか。
たとえリトルバスターズの仲間達と過ごす楽しい日々を失ってしまったとしても、何度でもリトルバスターズの仲間達と過ごす楽しい日々を始めることを繰り返すことができるのではないだろうか。
理樹が、失うことを怖れる「弱さ」といった否定的なものを放逐し、リトルバスターズの仲間達と過ごす楽しい日々を始めることを繰り返すことができることを肯定し、それを自ら選ぶのであれば。

このことに理樹と鈴が気付き、それを強く意志したとき、恭介が作り出した「永遠に1学期が繰り返される世界」は、滅びなければならない。
それは、理樹と鈴が、そして、恭介や小毬、リトルバスターズの皆が「世界」を生成するためである。
そして同時に、「永遠に1学期が繰り返される世界」が滅びることは「ゲームマスター」が滅びなければならないことを意味する。
理樹は、かつて恭介に救われたかもしれない。
しかし、恭介は、決して理樹に救われることを望まないであろう。
むしろ、恭介は滅びることを望むであろう。
だが、恭介はただ滅びるのではない。恭介自身を生成することを繰り返すために滅びるのである。
それは<ライオン>が、<小児>となるように。恭介は、いつだって「遊びの天才」なのだから。


「永遠に1学期が繰り返される世界」が滅びなければならないとすると、やはり麻枝准はリトルバスターズ!という作品をもって「永遠の世界」を否定したのであろうか。

思うに、リトルバスターズ!という作品で麻枝准が辿り着いた「永遠の世界」は、「“永遠に”なにもかも変わらずに同一のものが繰り返される世界」ではなく、「(消滅と)生成が“永遠に”繰り返される世界」ではなかろうか。
そしてそれは、神という「永遠」なる存在によって与えられる「世界」ではなく、人間が自ら選択することで「永遠」に繰り返すことのできる「世界」ではなかろうか。

たとえ、何もかも変わらずにいられなかったとしても、永遠は此処に在るのである。


以上からして、麻枝准は、リトルバスターズ!という作品をもって「永遠の世界」に決着をつけたといえよう。
それゆえ、麻枝准はリトルバスターズ!を最後の作品としようとしたのではないかと、私は思う。

fin.


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