麻枝作品で描かれる、いわゆる「永遠の世界」は、麻枝作品を難解ならしめている要因であると同時に、麻枝作品の魅力の肝ともいえるものである。

「永遠の世界」と聞いて私たちがまず思い浮かべるのは、おそらく「永久不変の世界」ではなかろうか。
しかし、<私たちが生きる世界>は、麻枝が『CLANNAD』において渚に語らせたように「なにもかも、変わらずにはいられない」世界である。
そうだとすれば、『ONE ~輝く季節へ~』において浩平が言うように「永遠なんて、な」いものと思える。

だが、それにもかかわらず、麻枝は『ONE ~輝く季節へ~』において、瑞佳に「えいえんは、あるよ……ここに、あるよ……」と語らせる。
なぜ、<私たちが生きる世界>が「なにもかも、変わらずにはいられない」世界であるのに、麻枝は「永遠」が「ここにあること」を諦めないのだろうか。

思うに、その答えは、『CLAANAD』における渚の、朋也に対する問いにある。
渚は朋也に、何もかも変わらずにはいられないとしても、この場所が好きでいられるか、と問う。
たしかに、<私たちが生きる世界>では、「なにもかも、変わらずにはいられない」のは確かだ。
しかし、そうであっても、私たちの生きる「この場所」は永遠である。
そしてそれは、「この場所」として、いま、ここにある。すなわち、「永遠は、ここにある」のだ。

そうして、『CLANNAD』で永遠がここにあることを「諦め」ることなく「明らめ」た麻枝は、『リトルバスターズ!』で「永遠」について答えを出す。
『リトルバスターズ!』において理樹は、どんな楽しいこともいつかは終わるものである事を知る。
しかし、だからといって永遠がここにない事にはならない。
なぜなら、楽しいことが終わるものであるとしても、大好きなこの場所で、また始めればいいのだから。
この場所を好きでいられれば、どんな楽しいことも永遠に始めることができるのだから。
弱さを振り払うことで手にした、強い力への意志で駆け抜けるこの青春(いま)が永遠なのだ。

こうして考えてみると、麻枝准の「永遠」は、それを<彼岸>に求めるキリスト教・西洋的な永遠ではなく、それを<いまここ>に求める仏教的・東洋的な永遠ではあるまいか。


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